1958年1月23日、ベネズエラの軍事独裁政権崩壊

1958年、市民と軍の反乱1958年1月23日は、ベネズエラの軍事独裁政権が倒れた日である。それから50年後の1月23日、チャベス派、反チャベス派、それぞれ別々にこの日を記念する行事を開催したと、 Venezuelanalysis.comでは報じている。

1958年1月23日
軍事政権が崩壊したといっても、実際何が起こったのか?ベネズエラの歴史について学んでいないとなかなかわからないし、知る人は少ないだろう。以下は、 Venezuelanalysis.comの記事(January 23rd 2008, by Kiraz Janicke)からの引用である。

1957年12月、ペンタゴンと緊密な関係にあり、反体制派に対する激しい弾圧で特徴づけられるペレス・ヒメネス政権は、権力を維持するために不正な国民投票を行なった。1958年1月の軍による反乱の失敗、そして1月21日の愛国委員会(1956年以来、政権とのたたかいを先導してきた政党による秘密連合組織)が呼びかけたゼネストは、増大する不満の表れであり、そして膨れ上がる軍の反乱は、政権の終焉の始まりを意味した。

1月23日未明、ペレス・ヒメネスはドミニカ共和国へ逃亡し、国営ラジオで独裁政権崩壊を発表する愛国委員会委員長のファブリシオ・オヘダ(Fabricio Ojeda )の声を聞いて、ベネズエラは目覚めた。人びとは街頭へ流れ出て祝福した。

しかし、多くのベネズエラ人たちは、「1月23日の精神」はその後に伝統的政党の指導者たちによって裏切られたと言う。独裁者が転落する数日前の1月20日、ロムロ・ベタンクール(民主行動党・AD)、ラファエル・カルデラ(キリスト教民主党・COPEI)ホビト・ビジャルバ(民主共和統一党・URD)といった政治指導者らは、アメリカ国務省ラテンアメリカ問題主任のマウリス・バーグバウム(Maurice Bergbaum )が居合わせたところで「ニューヨーク協定」として知られる権力を共有する取り決めに署名した。この取り決めは、そして1958年10月31日、署名をした場所であるラファエル・カルデラ(COPEI)の邸宅にちなんだ「プント・フィホ協定」で批准され、統一政府をつくることを約束した。

1958年の普通選挙で国会に当選したオヘダは、「1月23日はただこれだった。名前の変更。搾取の寡頭政治、帝国主義の下僕は新政府へ即適合した。政治権力は、同類の手に残った」と言い、1962年に議会から辞任した。

彼の世代の多くと同じように、オヘダは地下へもぐり、プント・フィホ協定の「偽りの民主主義」に対するゲリラ闘争に参加した。1966年6月20日、彼は陸軍諜報部に逮捕され、次の日に独房で薬物を投与され首を吊られた形で発見されたが、公式にはと自殺された。

今日、オヘダを記念する別の公式の式典で、国民議会の代議士、ダリオ・ヴィヴィアスは、オヘダはADやCOPEIといったペレス・ヒメネスの失脚も分かち合った政党指導者らに裏切られた、と言った。

「彼は、民主行動党政府の時に、迫害され、刑務所に送られ、拷問、暗殺された、そして彼らはいま、新時代(Un Neuvo Tiempo・UNT、元大統領候補のマヌエル・ロサレスの政党)、勇気ある人民連合(ABP)、プロジェクト・ベネズエラ、正義第一と姿を変えているのと同じ連中だ、つまり、いつも同じ裏切り者たちということだ。」

しかし、ようやくファブリシオ・オヘダの夢と理想がいま、ボリーバル革命のおかげで現実になろうとしている、とヴィヴィアスは言った。

写真上:1958年、市民と軍の反乱(El Universal)

記事URL:http://www.venezuelanalysis.com/news/3096
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